s57年7月20日 (朝)
御理解第68節「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
大変、んー、難しいことと見やすいことが、あ、同居しておるというような感じの御理解ですね。えー、ここでは最初には辛抱の徳を、おー、説いておられますよね。雨が降るから風が吹くからという。え、最後の方では、えー、そんなに拝むのにも節をつけたり、まあ、あー、大きな声をだしたり、もう人にものを言うとおりに拝めとこういうように、まあ、本当に見やすう、金光教ではいうならお経を覚えることもいらなければ、祝詞を覚えることもいらん、ねえ。と、まあ、いうような感じですよね。確かにそうなんですけれども、やはりだんだんおかげをいただいて、えー、信心の一つのしつけというものが、受けなければ本当の信心は入っていかれません。いきなりではいけない。まあ、夏期信行が始まりました日に、みんながたくさん集まって、あーして修行に打ち込んでおられます。ですから、あー、取次者私としてはどういうような、あー、心で日々お取次ぎさせていただいたのならよかろうかと思いましたら、神様から「しつけ」ということをいただいたです。あの着物にしつけをする、あのしつけです。子供の教育をする、あ、しつけをするということです。ね、だから信心の教育をするということ。ね、今日の御理解からいうと、もうそれこそ、もう、この近所の、おー、村内、い、の、までも響くような、うーん、あー、一生懸命の信行をなさいます。もう本当にね、えー、信心のあれは、みなさんしつけを受けてるです。と思うこと私はこりゃ、あのー、信行始まって以来思うことですけれども、皆さんどうぞ時間励行で来てくださいなんて私は言うたことがない。けれども、この夏期信行だけはもう、みなさん一時間前からずーっとお届けがあるでしょう。ね、そしてもう始まるときにはもう、ほとんどの方がお届け終わってますよ。しつけというもの、神様がしつけをしてくださるんですね。えー。それをやはり、なら、きちっとしたしつけができると、それを見てまた感心したり、あー、なるほど立派だな思うたり、まあ、するわけですけれども。今、ここで、うーん、赤ちゃんがたくさんおりますから、あー、両親が必ず子供を連れてからここに毎日お届けにくるんです。すと私がここで、早よ、と、拝むしつけをするんです。必ず私は手を立てて頭をさげさせてやるんです。この頃はね、それがだんだんするようになりましたが、やっぱ、お母さんお父さんのしつけですね、梶原先生方の子どもなんかまんまんちゃぁにお礼しなさいて言ってせんです。金光様ありがとうございますというと、しゃっとこうやってやるんです。私の幹三郎のところの子どもなんかは、こう、やっぱ、夏期信行で覚えたんでしょうか、うん、あ、仰ぎまつれば、だから、というて言うと、体を合唱してですね、もう、体をこうこう揺すってやる。どこででも、あ、仰ぎまつればっち言ったらすぐこれをやるんです。まあ本当にしつけというものはね、やっぱ見せて、言うて聞かせてして見せてほめてやらねば誰もせぬぞえといったようなきょうかがありますがね、やっぱ子供への教育なんかでも、ただもう、なー、金光様っちゃ、別に拝むこともいらん、これは実際は、なら、言葉にださな、人にもの言う通りとおっしゃるけども、心に思うただけでもいいです。私がならここで一時間も二時間も御祈念をするのは、言葉に、心の中でずーっと世界中回らななりませんからね。いっちょちょ言葉の出しよったっちゃ一時間二時間じゃでけんです。ね。ですから、それで神様が来てくださるんです。ね、だからというて、ならしつけを受けなければね、いうならば、こうして拍手は四つですよ、こうして昔だったら、祝詞、うーん、大祓いというふうに、今は祈念詞というものがね出来てますから、それをちゃんと覚えて、それをなら、あの一時の御祈念に皆さんが時間(たがわず?)ああして一生懸命修行なさるように、そういうしつけを受けておくと、家でも朝昼晩の御祈念も、ね、ちゃんとこうするようになるです。私どもやっぱそうでした。ね。婆があの御祈念をするときに私隣、横ざ行って御祈念をする、その御祈念の姿というものがちゃーんと子供の心の中にしみ込んでしまってるです。ね。そういうやはりしつけのためにはね、やはり、声も出さなきゃならない、また、いうなら、(あげる?)ように調子も自ずと出てくるのです。ね。それがいけないというのではないです。
今日は、あの、大阪の方から天王寺教会の教会長先生を先頭にして三名、まあ、偉い先生方が合楽を、まあ、いうならば見学にというでしょうかね、前一回見えたことがあるです、天王寺教会。そんなことから、あのー、お届けを受けておりましたから、今日、こちらへ、えー、まあー、なんか久留米の何とかホテルにみんなが落ちおうて、そしてそっからみえて二三日、ここで滞在をされて、まあ、合楽の信心を見たり聞いたりしていかれるということでございましょうが、そのことを私お願いさしてもらいよりましたら、あのー、天満宮様で鷽替えっていうのをしますね。あの、鷽替えを、は、しておると。結局、あの、より本当なことから本当のことを求めようとなさってのことであろうとこう思うです。なら、どれだけなら求めたからそれでよいということはない、これは限りがないですからね。私もそう思う。けれども、合楽の場合はこれが本当だというて私が説きますと、それを行ずるとその、本当の、おかげが実証してくるんです。ついてくるんです。だからというてそれだけでなら、もうこれがほんなこつというて動かんであったらいけません。また、私の信心がまた、別な方に飛躍していったらそれについてこなきゃおかげは止まります。というようにね、もう限りない、いうならば、あー、進展というか、あー、真の追求ということをまあ、思うのですけれども、そいうことでもやはり、その時その時のしつけを受けていくわけなんです。だから、神様がしつけてくださるしつけ、ははあ、例えば時間励行というのか、素晴らしいなとか、ね、皆さんも思われるでしょう。一時の御祈念にはもう、始まるときにはここいっぱいにきちっと集まっとるでしょうが。だから一事が万事に、あのようなふうにさせて頂いたら、そういうしつけを受けんで、そん時だけっていうことであってはいけないということです。神様はしつけをしてくださってあるんですからね。えー。でもう一つ、うーん、おかげをいただいて、そのこと私そうだなと思っておりましたら、テレビでね、なんかこう、かつらの宣伝をしておる、倉持昭かなんか、「くらもちあきら」ということをいただいたんです。ね。これはまあ、蔵をもっておるというなら私、あきらというなら私のことであろうとこうも思うですけれども、それとてもです、私の信心でも、まだかつらかぶっとるようなもんです。中はこう、はげとる。ね。けれども、より本当な、ね、生き方になると、より本当なおかげが必ず伴のうてくるです、ね。それを例えばおかげも伴のうてこないものもこれが本当だ、これが金光教だというふうにいうてそこにどんずわって居る人は、もうおかげが伴のうてこんから、そこでこれではいけんというふうに私は感じなければいけな、今日は大阪からみえる先生方はそういうふうに感じておられるのじゃないだろうか、合楽でのごひれいがどこにそういうごひれいのもとがあるだろうかといったような、まあ、研究をなさるつもりじゃないだろうか。ね。いわゆるしつけなんです。私どもがその時その時の信心のしつけをきちっと受けて、そのしつけ通りにきちっとお互いが、えー、信心生活が家業の上にも、いわゆる信行心行家業の中にそれがきちっとした信心のしつけを受けたものの姿勢、構えというものがでけてくることのために、なら、たとえば今日の( ? )、わざわざ朝参りにこんでん、家からおぼだっちゃよかぞというような感じがするですね。うーん、わざわざ節をつけたり、お、声をあげたり、わざわざ教会まで参ってこんでもといったような響きもそこに感ずるのですけれども、いうならば、教育を受ける、ね、教えを受ける、しつけをしていただくことのために、ここには信心の稽古にくるとこと仰るから、そういう稽古がみっちりやっぱできることが有り難いと思うですね。どうぞ。